身体と 現実との接触






「何を意識するか」の前に

施術をする側として、
またはトレーニングにおいて、
「何を意識すればいいですか?」と聞かれることがあります。

この質問には、
「意識して、反復して、それを無意識化していく」
という文脈が含まれている気がします。
僕自身はこのような文脈での意識を持った
施術の練習やトレーニングをおこなっていません。

僕が大切にしているのは、
「どう制御するか」という意識とは、少し違います。


意識で頑張って制御しなくても済む
「状態」
になること。

そして、
それを直接目指すこと。

僕の感覚としては、
そちらの方が近い気がしています。

姿勢を保とうと頑張る。
呼吸を深くしようと頑張る。
力を抜こうと頑張る。

僕が大切にしているのは、
上の様な意識しなければ維持できない状態から抜けること
を「意識」することです。

呼吸も、
姿勢も、
力の入り方も。
意識をしなくても、自然とその状態であること。

「何を意識してやるか」ではなく、
どうしたらその状態になれるか。

施術でもトレーニングでも、
そこを大切にしています。


例えば、
以前書いた”意図を入れない”という文脈で書いてみるとすると、
意図を入れないという事を意識して(意図を入れない様に)、
練習やトレーニングをおこなうのではなく、
意図を入れない状態になるトレーニングとは何ぞやというテーマでトレーニングをおこなう事になります。
前者と後者では大きな違いがあります。

意図があっても、自然でいる

「意図を持たない」というより、
意図を持った自分自身が、自然でいられることの方が大切なのかもしれません。

以前は、
意図を消そうとしていました。

自分が何かをするのではなく、
何かに動かされるような状態を、理想のように考えていた時期もあります。

ただ、
そこを目指そうとすると、逆に不自然になっていきました。

「意図を消さなければ」
「力まないようにしなければ」

そう考えるほど、
呼吸は浅くなり、感覚は狭くなっていく。


施術では、
こちらの神経系の状態が、そのまま触れ方に現れます。

結果を急いだり、
変えようとする意図が強くなると、
肩も手も呼吸も視野も少しずつ固まっていきます。

そうなると、
相手の組織から受け取れる情報も減っていきます。

筋膜や軟部組織は、
常に微細な張力変化をしています。
その変化を感じ取るには、
こちら側にも自由度が必要になります。


だから大切なのは、
意図を消すことではなく、
意図があっても感覚が閉じないこと。

「こうしなければ」に固定されないこと。
相手の反応によって変われること。

意図があるかどうかではなく、
その状態に余白や自由度が残っているかどうか。

今は、そこに自然さが現れるのではないかと思っています。

意図を持たない

ずいぶん昔の話。
オステオパシーを学び始めた頃、
施術において「意図を持たない」ことが大切だと教わりました。

この「意図を持たない」という言葉に、
しばらくの間で引っかかっていました。
呪われていたというか。。

一緒に学んでいる仲間も、
同じように呪われていた人が多かったように思います。

意図が入ったとか入らないとか。
そんな事を考えれば考えるほど、
おかしなことになっていきました。


「意図を持たない」

意図を手放すということ、
理屈は理解できるが、
体感的にわからなかった。

そもそも、
「意図を持たない」
という意図を持っている時点で、
どこか矛盾していて。


しばらく悩みながら、
一度、違う角度から考えてみました。
教わった事を鵜呑みにするのではなく
間違ってもいいから自分で考える。


そもそもなぜ、
意図を持つ施術は良くないと言われるのか。

それは、
不自然になりやすいからだと思います。

だとしたら、
基準はそこではない。

自然であるかどうか。

もし意図を持っていても自然であれば、
それは問題ではないはずです。


大切なのは、
意図があるかどうかではなく、
身体が自然かどうか。

そう考えると、
やるべきことはかなりシンプルになります。

この件に関してはもう少し掘り下げたいから、
また書くと思います。


「意図を持たない」という言葉が悪いわけではないし、

間違っているわけではありません。

そのときの自分の状態や視点によっては、
うまく機能しないことがあるということ。

例えば、
「力を抜く」という言葉も、
同じように機能していない場面を見かけます。
「力を抜く」為に「力を入れる」必要があったりするからです。

盲点と内省

友人の志岐さんのnoteを読んで、
盲点と自分と向き合う
ということについて考えていました。


骨内のlesionという用語を、
ずいぶん昔から知っていましたが、
最近になって気づいたことがあります。

知っていたのに、
骨の正常な状態がいまいちわかっていなかった、
ということです。

日課として、
自分の身体の制限があるところに触れることをしているのですが、
そのなかで、
ふとしたことから、
骨がすごく硬いことに気づきました。

いや、骨は硬いものですが、、
ただ、異常に緊張している骨の硬さを、
普通だと思っていました。

そのことに、
長い間気づけていなかった。


その気づきがあってから、
骨内のlesionとコミュニケーションが取れるようになり、
解消できるようになり、
すごい量の骨内の見落としに気づいたのです。

自分自身の盲点でもあったし、
これまでいろいろな方に身体を診てもらってきた中でも、
見落とされてきたものでした。

それだけに、
解消される影響はとても大きいものでした。


自分と向き合う、
という言葉があります。
ただ、
この言葉はあまり具体的ではないと僕は思っています。

僕が思う「自分と向き合う」とは、
ただただ自分の身体にある緊張を解いていくことです。
自分の盲点になっている緊張に気づいて、
解いていくこと。

その緊張は、
外界からの刺激に対する反応、
思考パターン、
行動パターン
と深く関係しています。

だから緊張が解けると、
自然と思考も行動も、
そして生き方も変わっていく。

自分と向き合うとは、
そういうことだと思っています。

志岐さんのNOTE

ちょうどいい感覚

施術をしていると、
「ちょうどいい状態」というものがあります。

筋膜、軟部組織などに、
過剰な張力がかかっていない状態、
と言えばいいでしょうか。

触れた組織が、
どこへでも動く自由がある。
呼吸が通っている。
神経系のざわつきがない。


筋膜は、
身体全体をつなぐ連続した組織です。

どこかに張力がかかれば、
それは隣接する組織へと伝わっていきます。

慢性的な不調がある人の多くは、
この連続したネットワークのどこかが固定され、
張力が抜けない状態にあります。


そしてその張力は、
触れている側にも伝わってきます。

相手の組織の張力は、
接触面を通じて
自分への外的負荷にもなります。

だから施術中、
相手の筋膜の張力が抜けていくとき、
自分にかかっていた負荷も、
同時に消えていきます。

触れている側の自分の呼吸が、
ふっと楽になるという形で、
ちょうどいい感覚は伝わってきます。


触れることは、
一方向ではありません。

触れているほうと、
触れられているほうが、
組織を通じてつながり、
同時にその状態に近づいていきます。


結局のところ、
「ちょうどいい」は、
頭で考えるものではなく、
身体で感じるものなのかもしれません。

ちょうどいい在り方について、
地球と太陽の関係性や親子関係に絡めて
考察されている回
セラピスト必聴

聴き直したいラジオ

ただ自分が聴き直したいが為に貼っていくリンク集
今後も追加予定

嗅覚と覚醒について

呼吸について(嗅覚と覚醒の続き)


魚豊先生の
逃げないことが逃げだ、
その言葉が出てくるまでが早すぎるみたいな話

一緒に不安になりましょう(2024年能登半島地震)

娘と箱根神社

地球の波動と太陽のパワー

小沢健二LIFE再現ライブ

娘と散歩

チームグルおじのレギュラー争い

グルおじの続きとまふねこ先生

惑星直列、台湾で爆食

推し活的な要素を踏まえない続けられない時代になっている話

星野さんが不良の話と本田さんのBling-Bang-Bang-Born

結構いいのそろったし発表しちゃいたい

春日の家に星野源が来る話、ガッキーみたもん

身体にとっての自由とは何か

前回、
自由という不安から離れるように、
何かに頼ったり、答えの中に入っていく、
という話を書きました。

では、
そのとき身体の側では、
何が起きているのでしょうか。


身体は本来、
特定の状態にとどまるのではなく、
その場の状況に応じて変わり続けています。

必要なときに力が入り、必要がなくなれば抜けていく。
その行き来があることで、身体はバランスを保っています。


例えば、
姿勢だとわかりやすいかもしれません。

身体は本来、
その瞬間に応じて自然にバランスを取っています。
それはただじっと座っている状態においてもです。

動的に変わり続けるというのが本来の「姿勢」なのですが、
それを、
一般的に言われている「正しい姿勢」に合わせようとすると、
身体を固定して、自由度が低下します。
つまり、
その時の「最適」ではなく「正しい(とされている)」
事を優先してしまっている状態です。
その瞬間よりも頭の中にある決まりを守っている状態です。

結果、
身体の本来の調整力、機能は、
発揮されにくくなります。


こうして見ると、
身体にとって大切なのは、
変わり続けられることなのかもしれません。

必要なときに力が入り、
必要がなくなれば抜けていく。
状況に応じて変わり続けられる。
固定した状態を作らない。



固定したもの、決まりがないことは、
とても不安ですが、
その自由という不安を含んだままいられる事、
(ややこしい言い回しになりますが)
不安でいる事に安心していられる事が、
成熟した自由と言えるのかもしれません。

「自由からの逃走」は
きっと自由になれという話ではなく、
自由を扱えるようになれという話だと思っています。

人はなぜ「正解」を探してしまうのか

エーリヒ・フロムの『自由からの逃走』という本があります。

この本では、
人は自由になるほど、
不安を感じやすくなる、
ということが描かれています。


自由というと、
好きに選べる良い状態のように思えますが、

その分、
「どうするか」を
自分で引き受けなければならなくなります。

自由とは、
ただ楽な状態ではなく、

曖昧さや不確かさを含んだまま、
そこにとどまることでもあります。


人は、
この状態にそのままでいることが、
あまり得意ではありません。

だから、
何かに頼ったり、従ったり、
考えに合わせたりして、
その不安から離れようとします。


例えば、
強いリーダーに従うこと。

あるいは、
正しいとされる理論や考え方に
自分を当てはめること。

どちらも、
不安から離れ、
あらかじめ用意された答えの中に
入っていく動きです。


それによって、
一時的に迷いは減りますが、

そのとき、
自分で感じていたはずの違和感や、
まだ決まりきっていない感覚を、
見て見ぬふりをしているとも言えます。

その結果、
自分を見失うことに繋がります。


ではこのことを、
身体の側から見ると、
どうなのでしょうか?

続く

関係ではなく、概念で処理してしまうとき

前回、身体の「境界」について少し書きました。
腸や皮膚、粘膜など、内と外を分ける働きがあるという話です。


この延長で見ると、
人間関係の中にも似たような境界があります。

人と人のあいだには、
距離や空気、言葉にしきれない違和感や安心感があります。
そういったものの中で関係は成り立っています。


ただ、
人と関わるというのは、
思っている以上に負荷がかかるものです。

余裕がなくなると、
そうした関係を扱いきれなくなり、
人はそれを概念で処理し始めます。

正しいかどうか。
意味があるかどうか。
理屈としてどうか。

感じていることよりも、
頭の中の基準を優先してしまう。


例えば、
違和感があるのに気のせいだと処理してしまう。
疲れているのに、これくらいは普通だと進めてしまう。

こうして、
本来感じていたはずの感覚が、
少しずつ曖昧になっていきます。


身体の中で起きていることと、
人間関係の中で起きていることは、
別のものではなく、似た構造で起きています。

施術で触れていると、
緊張が強い人ほど、触れられている感覚が曖昧なことがあります。
それは、硬さというよりも、
受け取る力がうまく働いていない状態です。

触れられることで、
皮膚や固有感覚の入力が増え、
身体からの情報の受け取り方が変わっていきます。

その結果、
内と外を分ける働きが安定し、
外からの刺激への反応も整っていきます。


身体を整えるというのは、
何かを変えることではなく、
本来の反応を取り戻していくことなのかもしれません。

その状態が戻ってくると、
身体だけでなく、
人との距離感も自然と整っていきます。

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