学びの文脈

学びにおいて大切なのは、
知識を増やすことよりも、
受け取る側の文脈を育てることなのかもしれません。

学ぶ、
感動する、
納得する。
その場では何か大切なことを理解したような気になる。

それ自体は悪いことではありません。
学びの入り口としてとても自然なことだと思います。

ただ、
どんなに素晴らしい話を聞いても、
実際の生活の中で活かすことは意外と簡単ではありません。

気づけば、
以前と同じ反応をしていたり、
同じようなところで引っかかっていたりする。
学びが増えているのに生き方はあまり変わっていない。

そんなことは、
誰にでもあるように思います。


学びには、
その人の文脈があります。

講師には講師の人生があり、
経験があり身体があります。
だから同じ言葉でも、
その人が言うからこそ意味を持つことがあります。

ただ、
学ぶ側にもまた、
その人なりの人生があり、
経験があり身体があります。

本当に大切なのは、
教わったことをそのまま覚えることではなく、
自分の文脈の中で理解し直すこと。

試して、
失敗して、
身体で経験する。

その過程を通らなければ、
どんなに深い言葉もただの感動で終わってしまいます。


意図を持たない
以前、

「意図を持たない」という言葉に長い間引っかかっていました。

その言葉が間違っていたわけではありません。
ただ、その頃の自分には、うまく受け取れる器がなかった。

今振り返ると、理解できなかったのではなく、
自分の文脈に翻訳できていなかったのだと思います。


学びは本来、
受け取る側そのものを育るものだと思います。

身体が変わり、経験が増え、人生が変わる。
すると、以前はただの言葉だったものが、
突然理解できるようになることがあります。

言葉の意味が変わったのではなく、
受け取る側が変わったのです。

僕は新しい言葉を探すことより、
受け取る側の文脈を育てることに興味があります。

重力と自然体の話

自然体の条件の一つとして、
重力と調和している状態
があるのではないかと思っています。

不安や緊張が強くなると身体は少し浮き上がります。
呼吸は浅くなり、
足の裏で地面を感じにくくなる。

逆に安心しているときは、
身体を重力に預けることができます。


重力は、
人間の都合とは関係なく常に働いています。
好きでも嫌いでも、
信じていても信じていなくても、
身体はその法則の中で生きています。

自然体について考える時、
難しく考えることではなく、
まずは重力という自然の法則と調和しているか?
という問いを持つことが良いように思います。



最近は木煉瓦で遊んでいます。

木煉瓦の上に立つと、
前庭系や足の裏から受け取っている感覚が普段よりもはっきりと現れます。
微細な感覚のズレや余分な緊張も隠せません。

木という重すぎず、軽すぎずな素材なのが良いです。

そこで見ているのは、
「どう立つか」ではなく、
「どうすれば重力と調和できるか」

そんなことを身体から学ぶ稽古でもあります。
興味のある方は、
ぜひ一緒に探求してみましょう。

続く

概念と身体の土台

施術を学んでいると時々感じることがあります。

在り方や意識。
そういった抽象度の高い話はとても大切です。

そして同じくらい、
日々の生活や人間関係、
睡眠、呼吸といった、
もっと具体的な部分も大切だと思っています。

どれだけ性能の良い空気清浄機を置いても、
部屋が散らかったままなら限界があるように、

どれだけ素晴らしい考え方や概念に触れても、
受け取る側の状態によって受け取れるものは変わります。

施術の話で言うと、
身体の緊張による制限がある状態では、
スムーズに手が出ず、優しく触れることもできないし、

その状態だと雑念も生まれやすく、
目の前で起きていることをそのまま受け取ること、
施術を通しての相手とのコミュニケーションも難しくなります。

つまり、
土台が整ってはじめて、抽象的な話が届くのだと思っています。

身体の状態が変わると、
以前から知っていた言葉の意味が突然わかることがあります。
理解は、
頭だけで起きるものではないという事です。

身体と 現実との接触






「何を意識するか」の前に

施術をする側として、
またはトレーニングにおいて、
「何を意識すればいいですか?」と聞かれることがあります。

この質問には、
「意識して、反復して、それを無意識化していく」
という文脈が含まれている気がします。
僕自身はこのような文脈での意識を持った
施術の練習やトレーニングをおこなっていません。

僕が大切にしているのは、
「どう制御するか」という意識とは、少し違います。


意識で頑張って制御しなくても済む
「状態」
になること。

そして、
それを直接目指すこと。

僕の感覚としては、
そちらの方が近い気がしています。

姿勢を保とうと頑張る。
呼吸を深くしようと頑張る。
力を抜こうと頑張る。

僕が大切にしているのは、
上の様な意識しなければ維持できない状態から抜けること
を「意識」することです。

呼吸も、
姿勢も、
力の入り方も。
意識をしなくても、自然とその状態であること。

「何を意識してやるか」ではなく、
どうしたらその状態になれるか。

施術でもトレーニングでも、
そこを大切にしています。


例えば、
以前書いた”意図を入れない”という文脈で書いてみるとすると、
意図を入れないという事を意識して(意図を入れない様に)、
練習やトレーニングをおこなうのではなく、
意図を入れない状態になるトレーニングとは何ぞやというテーマでトレーニングをおこなう事になります。
前者と後者では大きな違いがあります。

意図があっても、自然でいる

「意図を持たない」というより、
意図を持った自分自身が、自然でいられることの方が大切なのかもしれません。

以前は、
意図を消そうとしていました。

自分が何かをするのではなく、
何かに動かされるような状態を、理想のように考えていた時期もあります。

ただ、
そこを目指そうとすると、逆に不自然になっていきました。

「意図を消さなければ」
「力まないようにしなければ」

そう考えるほど、
呼吸は浅くなり、感覚は狭くなっていく。


施術では、
こちらの神経系の状態が、そのまま触れ方に現れます。

結果を急いだり、
変えようとする意図が強くなると、
肩も手も呼吸も視野も少しずつ固まっていきます。

そうなると、
相手の組織から受け取れる情報も減っていきます。

筋膜や軟部組織は、
常に微細な張力変化をしています。
その変化を感じ取るには、
こちら側にも自由度が必要になります。


だから大切なのは、
意図を消すことではなく、
意図があっても感覚が閉じないこと。

「こうしなければ」に固定されないこと。
相手の反応によって変われること。

意図があるかどうかではなく、
その状態に余白や自由度が残っているかどうか。

今は、そこに自然さが現れるのではないかと思っています。

意図を持たない

ずいぶん昔の話。
オステオパシーを学び始めた頃、
施術において「意図を持たない」ことが大切だと教わりました。

この「意図を持たない」という言葉に、
しばらくの間で引っかかっていました。
呪われていたというか。。

一緒に学んでいる仲間も、
同じように呪われていた人が多かったように思います。

意図が入ったとか入らないとか。
そんな事を考えれば考えるほど、
おかしなことになっていきました。


「意図を持たない」

意図を手放すということ、
理屈は理解できるが、
体感的にわからなかった。

そもそも、
「意図を持たない」
という意図を持っている時点で、
どこか矛盾していて。


しばらく悩みながら、
一度、違う角度から考えてみました。
教わった事を鵜呑みにするのではなく
間違ってもいいから自分で考える。


そもそもなぜ、
意図を持つ施術は良くないと言われるのか。

それは、
不自然になりやすいからだと思います。

だとしたら、
基準はそこではない。

自然であるかどうか。

もし意図を持っていても自然であれば、
それは問題ではないはずです。


大切なのは、
意図があるかどうかではなく、
身体が自然かどうか。

そう考えると、
やるべきことはかなりシンプルになります。

この件に関してはもう少し掘り下げたいから、
また書くと思います。


「意図を持たない」という言葉が悪いわけではないし、

間違っているわけではありません。

そのときの自分の状態や視点によっては、
うまく機能しないことがあるということ。

例えば、
「力を抜く」という言葉も、
同じように機能していない場面を見かけます。
「力を抜く」為に「力を入れる」必要があったりするからです。

ちょうどいい感覚

施術をしていると、
「ちょうどいい状態」というものがあります。

筋膜、軟部組織などに、
過剰な張力がかかっていない状態、
と言えばいいでしょうか。

触れた組織が、
どこへでも動く自由がある。
呼吸が通っている。
神経系のざわつきがない。


筋膜は、
身体全体をつなぐ連続した組織です。

どこかに張力がかかれば、
それは隣接する組織へと伝わっていきます。

慢性的な不調がある人の多くは、
この連続したネットワークのどこかが固定され、
張力が抜けない状態にあります。


そしてその張力は、
触れている側にも伝わってきます。

相手の組織の張力は、
接触面を通じて
自分への外的負荷にもなります。

だから施術中、
相手の筋膜の張力が抜けていくとき、
自分にかかっていた負荷も、
同時に消えていきます。

触れている側の自分の呼吸が、
ふっと楽になるという形で、
ちょうどいい感覚は伝わってきます。


触れることは、
一方向ではありません。

触れているほうと、
触れられているほうが、
組織を通じてつながり、
同時にその状態に近づいていきます。


結局のところ、
「ちょうどいい」は、
頭で考えるものではなく、
身体で感じるものなのかもしれません。

ちょうどいい在り方について、
地球と太陽の関係性や親子関係に絡めて
考察されている回
セラピスト必聴

身体にとっての自由とは何か

前回、
自由という不安から離れるように、
何かに頼ったり、答えの中に入っていく、
という話を書きました。

では、
そのとき身体の側では、
何が起きているのでしょうか。


身体は本来、
特定の状態にとどまるのではなく、
その場の状況に応じて変わり続けています。

必要なときに力が入り、必要がなくなれば抜けていく。
その行き来があることで、身体はバランスを保っています。


例えば、
姿勢だとわかりやすいかもしれません。

身体は本来、
その瞬間に応じて自然にバランスを取っています。
それはただじっと座っている状態においてもです。

動的に変わり続けるというのが本来の「姿勢」なのですが、
それを、
一般的に言われている「正しい姿勢」に合わせようとすると、
身体を固定して、自由度が低下します。
つまり、
その時の「最適」ではなく「正しい(とされている)」
事を優先してしまっている状態です。
その瞬間よりも頭の中にある決まりを守っている状態です。

結果、
身体の本来の調整力、機能は、
発揮されにくくなります。


こうして見ると、
身体にとって大切なのは、
変わり続けられることなのかもしれません。

必要なときに力が入り、
必要がなくなれば抜けていく。
状況に応じて変わり続けられる。
固定した状態を作らない。



固定したもの、決まりがないことは、
とても不安ですが、
その自由という不安を含んだままいられる事、
(ややこしい言い回しになりますが)
不安でいる事に安心していられる事が、
成熟した自由と言えるのかもしれません。

「自由からの逃走」は
きっと自由になれという話ではなく、
自由を扱えるようになれという話だと思っています。

人はなぜ「正解」を探してしまうのか

エーリヒ・フロムの『自由からの逃走』という本があります。

この本では、
人は自由になるほど、
不安を感じやすくなる、
ということが描かれています。


自由というと、
好きに選べる良い状態のように思えますが、

その分、
「どうするか」を
自分で引き受けなければならなくなります。

自由とは、
ただ楽な状態ではなく、

曖昧さや不確かさを含んだまま、
そこにとどまることでもあります。


人は、
この状態にそのままでいることが、
あまり得意ではありません。

だから、
何かに頼ったり、従ったり、
考えに合わせたりして、
その不安から離れようとします。


例えば、
強いリーダーに従うこと。

あるいは、
正しいとされる理論や考え方に
自分を当てはめること。

どちらも、
不安から離れ、
あらかじめ用意された答えの中に
入っていく動きです。


それによって、
一時的に迷いは減りますが、

そのとき、
自分で感じていたはずの違和感や、
まだ決まりきっていない感覚を、
見て見ぬふりをしているとも言えます。

その結果、
自分を見失うことに繋がります。


ではこのことを、
身体の側から見ると、
どうなのでしょうか?

続く

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