ちょうどいい感覚

施術をしていると、
「ちょうどいい状態」というものがあります。

筋膜、軟部組織などに、
過剰な張力がかかっていない状態、
と言えばいいでしょうか。

触れた組織が、
どこへでも動く自由がある。
呼吸が通っている。
神経系のざわつきがない。


筋膜は、
身体全体をつなぐ連続した組織です。

どこかに張力がかかれば、
それは隣接する組織へと伝わっていきます。

慢性的な不調がある人の多くは、
この連続したネットワークのどこかが固定され、
張力が抜けない状態にあります。


そしてその張力は、
触れている側にも伝わってきます。

相手の組織の張力は、
接触面を通じて
自分への外的負荷にもなります。

だから施術中、
相手の筋膜の張力が抜けていくとき、
自分にかかっていた負荷も、
同時に消えていきます。

触れている側の自分の呼吸が、
ふっと楽になるという形で、
ちょうどいい感覚は伝わってきます。


触れることは、
一方向ではありません。

触れているほうと、
触れられているほうが、
組織を通じてつながり、
同時にその状態に近づいていきます。


結局のところ、
「ちょうどいい」は、
頭で考えるものではなく、
身体で感じるものなのかもしれません。

ちょうどいい在り方について、
地球と太陽の関係性や親子関係に絡めて
考察されている回
セラピスト必聴

身体にとっての自由とは何か

前回、
自由という不安から離れるように、
何かに頼ったり、答えの中に入っていく、
という話を書きました。

では、
そのとき身体の側では、
何が起きているのでしょうか。


身体は本来、
特定の状態にとどまるのではなく、
その場の状況に応じて変わり続けています。

必要なときに力が入り、必要がなくなれば抜けていく。
その行き来があることで、身体はバランスを保っています。


例えば、
姿勢だとわかりやすいかもしれません。

身体は本来、
その瞬間に応じて自然にバランスを取っています。
それはただじっと座っている状態においてもです。

動的に変わり続けるというのが本来の「姿勢」なのですが、
それを、
一般的に言われている「正しい姿勢」に合わせようとすると、
身体を固定して、自由度が低下します。
つまり、
その時の「最適」ではなく「正しい(とされている)」
事を優先してしまっている状態です。
その瞬間よりも頭の中にある決まりを守っている状態です。

結果、
身体の本来の調整力、機能は、
発揮されにくくなります。


こうして見ると、
身体にとって大切なのは、
変わり続けられることなのかもしれません。

必要なときに力が入り、
必要がなくなれば抜けていく。
状況に応じて変わり続けられる。
固定した状態を作らない。



固定したもの、決まりがないことは、
とても不安ですが、
その自由という不安を含んだままいられる事、
(ややこしい言い回しになりますが)
不安でいる事に安心していられる事が、
成熟した自由と言えるのかもしれません。

「自由からの逃走」は
きっと自由になれという話ではなく、
自由を扱えるようになれという話だと思っています。

人はなぜ「正解」を探してしまうのか

エーリヒ・フロムの『自由からの逃走』という本があります。

この本では、
人は自由になるほど、
不安を感じやすくなる、
ということが描かれています。


自由というと、
好きに選べる良い状態のように思えますが、

その分、
「どうするか」を
自分で引き受けなければならなくなります。

自由とは、
ただ楽な状態ではなく、

曖昧さや不確かさを含んだまま、
そこにとどまることでもあります。


人は、
この状態にそのままでいることが、
あまり得意ではありません。

だから、
何かに頼ったり、従ったり、
考えに合わせたりして、
その不安から離れようとします。


例えば、
強いリーダーに従うこと。

あるいは、
正しいとされる理論や考え方に
自分を当てはめること。

どちらも、
不安から離れ、
あらかじめ用意された答えの中に
入っていく動きです。


それによって、
一時的に迷いは減りますが、

そのとき、
自分で感じていたはずの違和感や、
まだ決まりきっていない感覚を、
見て見ぬふりをしているとも言えます。

その結果、
自分を見失うことに繋がります。


ではこのことを、
身体の側から見ると、
どうなのでしょうか?

続く

関係ではなく、概念で処理してしまうとき

前回、身体の「境界」について少し書きました。
腸や皮膚、粘膜など、内と外を分ける働きがあるという話です。


この延長で見ると、
人間関係の中にも似たような境界があります。

人と人のあいだには、
距離や空気、言葉にしきれない違和感や安心感があります。
そういったものの中で関係は成り立っています。


ただ、
人と関わるというのは、
思っている以上に負荷がかかるものです。

余裕がなくなると、
そうした関係を扱いきれなくなり、
人はそれを概念で処理し始めます。

正しいかどうか。
意味があるかどうか。
理屈としてどうか。

感じていることよりも、
頭の中の基準を優先してしまう。


例えば、
違和感があるのに気のせいだと処理してしまう。
疲れているのに、これくらいは普通だと進めてしまう。

こうして、
本来感じていたはずの感覚が、
少しずつ曖昧になっていきます。


身体の中で起きていることと、
人間関係の中で起きていることは、
別のものではなく、似た構造で起きています。

施術で触れていると、
緊張が強い人ほど、触れられている感覚が曖昧なことがあります。
それは、硬さというよりも、
受け取る力がうまく働いていない状態です。

触れられることで、
皮膚や固有感覚の入力が増え、
身体からの情報の受け取り方が変わっていきます。

その結果、
内と外を分ける働きが安定し、
外からの刺激への反応も整っていきます。


身体を整えるというのは、
何かを変えることではなく、
本来の反応を取り戻していくことなのかもしれません。

その状態が戻ってくると、
身体だけでなく、
人との距離感も自然と整っていきます。

 原因ではなく、状態を見る

不調があるとき、多くの場合「何が原因か」を考えます。
何を食べたのか、何を変えたのか、どこに問題があるのか。

もちろん、それが必要なこともあります。
ただ実際には、原因よりも「状態」のほうが影響していることも多いです。


なぜなら、同じ刺激でも反応が変わることがあるからです。

あるときは気にならず、あるときは強く反応する。
この違いは、刺激そのものではなく、受け取る側の状態によって生まれています。

これは、日常の中でもよく起きていることです。

例えば余裕がないとき、少しの音が気になったり、普段なら流せることに反応してしまう。
つまり、状態が変わると受け取り方が変わります。


そしてこれは、そのまま身体の中でも起きています。

身体は常に外からの刺激を受け取りながら、
それをそのまま通すか、強く反応するかを無意識に選んでいます。

神経系に余裕があるときは、刺激はそのまま流れていきます。
一方で余裕がなくなると、小さな刺激でも引っかかり、反応が強くなります。

例えば、普段は問題なく食べられるものでも、
疲れているときや胃腸の調子が落ちているときには、重く感じたり、違和感が出ることがあります。

同じものを食べているのに反応が変わるのは、
食べ物そのものではなく、受け取る側の状態が変わっているからです。

身体の中でも同じことが起きていて、
状態が整っているときは刺激は自然に通り、
余裕がなくなると、同じ刺激でも引っかかりやすくなります。


身体には、内と外を分ける境界があります。
腸や皮膚、粘膜といった場所で、外からの刺激を受け取りながら、必要なものとそうでないものを分けています。

この境界が安定しているとき、身体は過剰に反応することなく、自然に処理していきます。
だから同じ刺激でも問題になりません。

一方で、状態に余裕がなくなると、この働きは不安定になります。
すると本来であれば流せるものに反応したり、逆に必要なものもうまく受け取れなくなります。

こうして不調が出てきます。


だからこのときに大切なのは、何かを足して変えようとすることよりも、
そもそも身体が受け取れる状態にあるかどうかを見ることです。

整体では、単に硬さだけを見ているわけではありません。
その人の身体がどこまで受け取れているのか、どこで受け取りにくくなっているのかを見ています。

そして無理に変えようとするのではなく、身体が自然に受け取れる状態に戻っていくように関わっていきます。


受け取れる状態が整ってくると、身体の反応は変わっていきます。
同じ刺激でも過剰に反応しなくなり、必要なものは受け取り、不要なものは流せるようになります。

その結果として、不調も落ち着いていくことが多いです。


だから順番としては、何かを変える前にまず状態を整えること。
状態が整っていれば、変化は無理なく起きていきます。

未来に備える思考と、未来に消耗する思考

先のことを考える力は必要です。

少し先を見て動ける人のほうが、
準備もできるし、判断も早くなります。

ここまでは自然なことだと思います。

ただ、その先に進みすぎると、
別のことが起きてきます。

まだ何も起きていない段階で、
頭の中だけで何度もシミュレーションを繰り返してしまう。

この状態になると、

考えている内容は未来のことでも、
身体の中ではすでに反応が起きています。

実際には起きていないことに対して、
緊張したり、構えたり、消耗していく。

一見すると、慎重さや思慮深さのようにも見えますが、
実際には少し質が違います。

本来の予測は、

起こりそうなことを見て、
大まかな対応の方向だけ決めて、
一度手放せるものです。

それに対して、

同じ場面を何度も頭の中で再生したり、
その先、そのまた先と展開し続けてしまうと、

まだ起きていない不快感を先に引き受けている状態に近くなります。

人は出来事で疲れることもありますが、

起きるかどうかも分からないことに対して
先に反応し続けていると、
実際の出来事よりも深く消耗していきます。

このときの背景には、

失敗そのものというより、
うまくいかなかったときの自分をどう扱うか、
その余白の少なさが関係していることが多いです。

だからこそ、

先のことを考えるときは、
どこまで考えるかよりも、

どこで切り上げるか

のほうが重要になります。

ひとつの目安としては、

「そのとき自分はどう動くか」

ここまで見えたら、一度止めることです。

それ以上先の、
相手の反応や空気、評価まで考え始めたら、
それはもう今やることではありません。

一度思考を止めて、

呼吸に意識を戻す。
足の感覚を感じる。
今やるべきことに戻る。

こうやって身体を使って「今」に戻していきます。

身体は常に「今」でしか働いていません。

どれだけ先のことを考えていても、
実際に呼吸しているのも、支えているのも、感じているのも、すべて今です。

だからこそ、思考が先に行きすぎたときは、
身体に戻ることでしかバランスは取り戻せません。

未来に備えることと、
未来に引っ張られて消耗することは、
似ているようでまったく別のものです。

先のことはある程度見ておく。
でも全部は先にやらない。

残りは、そのときの自分に任せる。

そのくらいの余白があるほうが、
結果的にうまくいくことが多いように思います。

なぜ無理をさせても良くならないのか

—- 身体と会社に見る「余裕」のつくり方 —

前回の記事では、
身体が変化するときには
余裕や余白が生まれることが大切
という話を書きました。


少しイメージしやすいように、

身体ではなく「会社」の例で考えてみます。

誰かがダウンした会社

ある会社で、
とても頑張っていた社員が
働きすぎてダウンしてしまったとします。

そのときに、

「もっと頑張れ」
「早く戻ってこい」
と、無理に鞭を打ったらどうなるでしょうか。

おそらく状況は、
あまり良くならないはずです。

まずは会社が回る状態をつくる

もし会社として立て直すなら、
まず考えるのは

今働いている人たちが、
ちゃんと力を発揮できる状態をつくることかもしれません。


今動いている人たちに感謝しながら、

無理のない形で仕事を分担する。

そうすると、
会社全体の仕事が少しずつ回り始めます。

会社が回るようになると、
はじめて
「休んでいる人が戻ってくる余裕」
も生まれてきます。


身体でも同じことが起きています

身体の不調も、
少し似ているところがあります。

痛みがある場所を、
無理に働かせようとするよりも、

まだ働いている場所を整える

そうすると、
身体の中で仕事の分担が戻ってきます。

一箇所に集中していた負担が減り、
身体全体に少しずつ余裕が生まれます。

その余裕ができたとき、
これまで頑張りすぎていた場所も、
無理なく変化し始めることがあります。

身体は、
無理に働かせることで整うのではなく、

余裕が生まれたときに整っていく

そんな性質を持っているように感じます。

身体に余裕を持たせる整体の効果

身体に痛みや不調があるとき、
多くの人は「その場所をどうにかしよう」と考えます。

痛みを取る。
硬いところを緩める。
歪みを整える。

もちろん、それが必要なこともあります。
ただ、慢性的な不調では、
それだけでは変化が起こりにくいこともあります。

身体は一部だけで働いているわけではない

身体は本来、
一つの場所だけで動いているわけではありません。

呼吸、姿勢、動き。
どれもいくつもの場所が少しずつ働きながら、
全体のバランスを取っています。

しかしどこかがうまく働けなくなると、
その分の仕事を他の場所が代わりに引き受けます。

例えば肩こりの場合。

  • 呼吸が浅くなる
  • 背中の動きが少なくなる
  • 胸郭が広がりにくくなる

こうした状態があると、
本来は胸や背中が担うはずの働きを、
肩の筋肉が代わりに引き受けることになります。

すると肩は、本来以上の仕事を抱えることになり、
張りや痛みとして現れてきます。

働いている場所を見る

整体では、
頑張りすぎている場所を直接変えようとするよりも、
まだ働いている場所を見ることがあります。

  • 呼吸が動いているところ
  • 少し余裕のある関節
  • 力が抜ける場所

そういう場所が働きやすい状態をつくっていくと、
身体の中で止まっていた働きが少しずつ戻ってきます。

すると、一つの場所に集中していた仕事が、
身体全体に分散されていきます。

余白が生まれると身体は変わる

一箇所が頑張りすぎなくてよくなると、
そこには自然と余裕や余白が生まれます。

身体は、
無理に変えようとするよりも、
こうして余裕が生まれたときに、
自然と変化していくことがあります。

整体は、
痛みを押さえ込む技術というよりも、

身体が変化できる余裕と余白を取り戻す関わり

そんなふうに捉えることもできるのかもしれません。

身体は、余白が生まれると変わります。

環境の変化がもたらすメリット

北海道に行ってきた。

旅行など、
日常の場所を離れることを
ときどき意識してやっている。

特別なことをするわけではなくて、
ただ普段の生活圏から
少し離れるだけでもいい。

不思議なもので、
場所が変わると
身体の感じも少し変わる。

普段と違う景色を見たり、
違う空気の中を歩いたり、
知らない道を歩いたりする。

それだけで、
感覚が少し開く感じがある。

身体の仕組みから考えてみても、
環境が変わるということは、
神経に入ってくる情報が
一度リセットされるようなところがある。

私たちの脳は、
場所と状態を
意外と強く結びつけて覚えている。

同じ場所、
同じ道、
同じ景色。

そういう環境の中にいると、
身体も自然と
同じ状態を繰り返すようになる。

だからこそ、
肉体として一度その場所から離れると、
神経の状態も
少し変わるのかもしれない。

気分転換という言葉もあるけれど、
あれは案外、
身体のレベルでも起きていることなのだと思う。

だから、
ときどき場所を変える。

それだけでも、
身体には
ちょっとした余白が生まれる気がする。

密教と顕教: 成長の基本とその重要性

密教や秘教のような体系には、
どうしても人を惹きつけるところがある。

特別な教え
奥義
秘伝

そういう言葉には、
どこか魅力がある。

ただ、本来の仏教の考え方では、
いきなりそこに向かうものではないらしい。

まずは顕教。
つまり、公開されている教えから始める。


倫理や生活、
物事の見方や考え方。
そうした基礎を整えることが、
最初の段階とされている。

その土台があって、
はじめて密教のような体系を扱う意味が出てくる。


逆に言えば、
土台がないまま強い技法だけを扱うと、
理解も使い方もズレてしまう可能性がある。

これは施術でも、
健康法でも、
トレーニングでも、
似たようなことが多い気がする。

すごい人がやっていることを
学ぼうとすること自体は、
悪いことではない。

むしろ必要なことでもあると思う。
ただ、表に見えている技術や形だけを追って、
その裏側にある感覚や前提、
積み重ねてきたものを受け取れなければ、
かえって逆効果になることがある。

実際、そういう例は
かなり多いように感じる。

できるだけ早く良くなりたい。
早く変わりたい。

そう思う気持ちは、
多分とても自然なことだと思う。

けれど、
物事にはどうしても順番がある。
派手な方法よりも、
地味な基礎のほうが
結局は大きな土台になることが多い。

身体のことでも同じで、
まずは呼吸や感覚の質や、
自分の状態をどう観察するか。

そういうところが整っていてこそ、
その先のものが生きてくる。
特別なものを学ぼうとするよりも、まずは普通の事を普通に。

派手ではないけれど、
地に足をつけて一歩一歩進むこと。
結局はそれが、

遠回りに見えて
いちばん確かな道なのかもしれない。

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