エゴで施術しないというエゴ

施術では、
「エゴを入れないこと」が大切だと言われることがあります。

自分が治そうとしない、
変化を起こそうとしない、
身体の反応に任せる。
確かにどれも大切なことだと思います。

ただ、「エゴを入れてはいけない」と考え始めると、
少し話が変わってきます。


自分は何もしてはいけない。
身体に任せなければいけない。
意図を持ってはいけない。

そうやって、
「エゴを捨てた施術家でありたい」という自己像がつくられていく。
それ自体が、
一つのエゴなのだと思います。


「良くしてあげたい」
「変化を起こしたい」という気持ちだけが、
エゴなのではありません。

「自分は何もしない」
「身体にすべてを任せる」という姿勢も、
それを守ろうとすれば、同じように自分の都合になります。
(こっちの方が拗らせてるのでタチが悪いのでは・・・)

目の前の身体が何を必要としているのか。
それよりも「自分はこういう施術をする人間だから」という自己像が先に来れば、
結局、身体ではなく自分を見ていることになります。


自分自身、
「エゴを入れない」とはどういうことなのか、
考えていた時期がありました。

でも今は、
施術中にそういうことを考えることはありません。

エゴをなくそうとも、
抑えようともしていない。
必要ならエゴにも仕事をしてもらう。

エゴを克服したわけではなく、
そもそも、その問い自体がなくなりました。

今はそのくらいが一番自然な気がしています。

以前書いた意図の記事もご一緒にどうぞ。
http://masakazushibata.com/archives/2432

子供の頭痛から

お子さんの頭痛を診ていると、
「いつから頭痛がありますか?」
という話だけでは終わらないことがあります。

話を聞いていくと、
小さい頃に頭を強く打ったことがある、
腕を骨折したことがある、
そんな話が出てくることがあります。

それが頭痛の原因だと言いたいわけではなく、
ただ施術では、
そうした外傷も症状への影響の一つとして考えています。


外傷(骨折、打撲、捻挫など)で影響を受けるのは、
骨だけではありません。
骨膜、筋膜、靭帯、関節包といった結合組織にも大きな力が加わります。

これらは身体全体でつながっているため、
受傷した場所だけでなく、離れた部位の動きや張力にも影響することがあります。
レントゲンでは骨がきれいについていてもそこまでは写りません。


神経も同じです。
神経は周囲の組織との間を滑りながら働いています。

外傷によって神経そのものではなく、
神経が働く環境が変わることがあります。

それが痛みだけでなく、
身体の使い方や自律神経の働きにも影響することがあります。


また骨膜や靭帯、関節包には、
身体の位置や動きを脳へ伝える感覚受容器がたくさんあります。
外傷を受けると、
身体はその場所を守ろうとして、
本来の機能的な動きではない挙動をおこし、
組織が回復しても、
その時に覚えた身体の使い方だけが残ることがあります。

痛みはないのに、左右差が残っていたり、

無意識にかばっていたり。
そんな身体は珍しくありません。


つまりお子さんにおいては、
将来の姿勢などにも影響してくるということです。


子どもは怪我が多いものです。
だから子どもの頭痛でも
「頭は痛いですか?」だけではなく、

「小さい頃に大きなケガはありましたか?」
と伺うようにしています。

骨が治ったから終わり、
ではなく、

身体全体がどう回復しているか。
そこまで見ておくことで、
将来の頭痛や姿勢などにつながる問題を防げることもあるかもしれません。


今の身体には、
これまで身体が経験してきたことも、
静かに積み重なっています。

選択肢を増やし、選択肢を絞る

友人が面白い使い方をしていたので、
影響を受けて、
最近、タロットカードで遊んでいます。

「未来を教えてもらう」ためではなく、
自分で決めた道を気持ちよく進むためのものとして。

たまたま出た、カードの解釈を、
その道を進むための後押しとして利用する。

身体の自由度が増え、視野が広がり、
選択肢を広げることはとても大切です。

でも、
選択肢が増えたからこそ、
あえて一つを選び、
進むと決めることにも意味があると思っていて。

選択肢を広げることと
狭めること。
どちらも前に進むためには、
大切なことなのかもしれません。

別々に見えるものをつなぐこと

氣志團のTシャツにCorneliusをオマージュしたTシャツがあります。


「Cornelius」ではなく、
「Ceroniius」。
綾小路セロニアス翔のミドルネーム「Ceroniius」を掛けたデザインです。

ちなみに、
ロゴの下にある小さな文字も、
Corneliusのレーベル「Trattoria」ではなく、
「Ralittoria」
ここまで作り込まれているのを見て、
「この人たち、センス良すぎじゃね?」と思いました。
……余談でした。


まったく関係のないもの同士。
でも、その二つを結ぶ視点が生まれると、
別々だったものが一つにつながります。

施術でも、
そんなことをよく考えます。


例えば、
骨間膜と腹膜。
皮膚と脳。
足と頭蓋。
一見すると関係がないように見えます。

でも、
その間をつなぐ視点が生まれると、
身体の見え方が変わります。

足への刺激で首が変わることもあるし、
呼吸を見直すことで姿勢が変わることもある。

施術をしていて面白いのは、
そういう一本の線が見つかる瞬間です。
別々に見えていたものの間に線が見えてくると、
身体は今までとは少し違って見えてきます。

前提を疑うこと

何年か前、
「アファンタジア」という概念を知りました。
アファンタジア: イメージのない世界で生きる

ざっくりいうと、
頭の中で
映像を思い浮かべることが苦手、
あるいは思い浮かべられない特性のことで、
人口の1〜5%程いるそうです。

自分でも調べてみると、
自分もその傾向が強いように思いました。

振り返ってみると、
「だからか」
と思うことがたくさんあります。


昔から、
人に教わったことをその場で受け取ることが苦手で。

例えば施術のセミナーで、
「イメージしてください。」
「頭の中で思い浮かべてください。」
と言われても、
そもそもイメージが頭の中に浮かばない。

だから当時は、
教わったことをそのまま受け取るのではなく、
一度立ち止まることから始めていました。
そして、
相手は何を伝えようとしているのかを考える。
どうすれば自分の身体で再現できるのかを考える。

教わることと理解することの間に、
自分なりの学び方を作る必要があったのです。


故に

本当にその前提から始めて良いのだろうか。
もっと手前に、
見落としていることはないだろうか。

自然と、
こんなことを考えるようになりました。


だから結局、
自分で試すしかありませんでした。
触って、
動いて、
失敗して、
また試す。

その繰り返しの中で、
少しずつ身体で理解していきました。


前提を疑うようになったのも、
身体で理解することを大切にするようになったのも、
もとをたどれば、
学びの前提が自分には当てはまらなかったところから来ているのかもしれません。

なんか良い、の積み重ね

理解できることは大切です。
知識も大切です。
説明できることも大切です。


不調に悩まされていると、
「なぜそうなるのか」
を知りたくなります。

原因は何か。
何が足りないのか。
何をすれば良いのか。


もちろん、
それらを知ることには価値があります。

でも、
正解を知ることと、
身体が変わることは、
少し違うように思います。


呼吸が少し楽になる。
よく眠れる。
身体が軽い。

身体は、
そんな小さな「良い」の積み重ねで、
変わっていくように思います。


だから、
何が正しいかを探し続けるより、
その時の自分にとって、
少しでも「なんか良い」を積み重ねていく。

身体はこれまで積み重ねてきたものの結果でもあります。
もしかしたら、
「なんか良くない」が少しずつ重なってきたのかもしれません。

だからこそ、
今日からは「なんか良い」を少しずつ増やしていく。


施術も、

身体にとっての「なんか良い」に気づく、
一つのきっかけになればと思っています。


理解できなくても、
「なんか良い」
は大切です。

なんか良いです

学びの文脈

学びにおいて大切なのは、
知識を増やすことよりも、
受け取る側の文脈を育てることなのかもしれません。

学ぶ、
感動する、
納得する。
その場では何か大切なことを理解したような気になる。

それ自体は悪いことではありません。
学びの入り口としてとても自然なことだと思います。

ただ、
どんなに素晴らしい話を聞いても、
実際の生活の中で活かすことは意外と簡単ではありません。

気づけば、
以前と同じ反応をしていたり、
同じようなところで引っかかっていたりする。
学びが増えているのに生き方はあまり変わっていない。

そんなことは、
誰にでもあるように思います。


学びには、
その人の文脈があります。

講師には講師の人生があり、
経験があり身体があります。
だから同じ言葉でも、
その人が言うからこそ意味を持つことがあります。

ただ、
学ぶ側にもまた、
その人なりの人生があり、
経験があり身体があります。

本当に大切なのは、
教わったことをそのまま覚えることではなく、
自分の文脈の中で理解し直すこと。

試して、
失敗して、
身体で経験する。

その過程を通らなければ、
どんなに深い言葉もただの感動で終わってしまいます。


意図を持たない
以前、

「意図を持たない」という言葉に長い間引っかかっていました。

その言葉が間違っていたわけではありません。
ただ、その頃の自分には、うまく受け取れる器がなかった。

今振り返ると、理解できなかったのではなく、
自分の文脈に翻訳できていなかったのだと思います。


学びは本来、
受け取る側そのものを育るものだと思います。

身体が変わり、経験が増え、人生が変わる。
すると、以前はただの言葉だったものが、
突然理解できるようになることがあります。

言葉の意味が変わったのではなく、
受け取る側が変わったのです。

僕は新しい言葉を探すことより、
受け取る側の文脈を育てることに興味があります。

重力と自然体の話

自然体の条件の一つとして、
重力と調和している状態
があるのではないかと思っています。

不安や緊張が強くなると身体は少し浮き上がります。
呼吸は浅くなり、
足の裏で地面を感じにくくなる。

逆に安心しているときは、
身体を重力に預けることができます。


重力は、
人間の都合とは関係なく常に働いています。
好きでも嫌いでも、
信じていても信じていなくても、
身体はその法則の中で生きています。

自然体について考える時、
難しく考えることではなく、
まずは重力という自然の法則と調和しているか?
という問いを持つことが良いように思います。



最近は木煉瓦で遊んでいます。

木煉瓦の上に立つと、
前庭系や足の裏から受け取っている感覚が普段よりもはっきりと現れます。
微細な感覚のズレや余分な緊張も隠せません。

木という重すぎず、軽すぎずな素材なのが良いです。

そこで見ているのは、
「どう立つか」ではなく、
「どうすれば重力と調和できるか」

そんなことを身体から学ぶ稽古でもあります。
興味のある方は、
ぜひ一緒に探求してみましょう。

続く

概念と身体の土台

施術を学んでいると時々感じることがあります。

在り方や意識。
そういった抽象度の高い話はとても大切です。

そして同じくらい、
日々の生活や人間関係、
睡眠、呼吸といった、
もっと具体的な部分も大切だと思っています。

どれだけ性能の良い空気清浄機を置いても、
部屋が散らかったままなら限界があるように、

どれだけ素晴らしい考え方や概念に触れても、
受け取る側の状態によって受け取れるものは変わります。

施術の話で言うと、
身体の緊張による制限がある状態では、
スムーズに手が出ず、優しく触れることもできないし、

その状態だと雑念も生まれやすく、
目の前で起きていることをそのまま受け取ること、
施術を通しての相手とのコミュニケーションも難しくなります。

つまり、
土台が整ってはじめて、抽象的な話が届くのだと思っています。

身体の状態が変わると、
以前から知っていた言葉の意味が突然わかることがあります。
理解は、
頭だけで起きるものではないという事です。

身体と 現実との接触






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