自分で考えないのに、自分は出る

これは僕自身の話でもあります。

何かを教わったとき、
なかなか先に進めない人がいます。

言われたことをやる前に、
自分はこう思う。
自分には合わない気がする。

でも、こうした方がいいんじゃないか。
まだ納得できない。

いろいろ考えているように見えます。
実際、本人もたくさん考えているのだと思います。


でも、少し不思議です。
自分で考えているようで、
教わったことについては、あまり考えていない。

なぜこうするのか。
実際にやると何が起きるのか。
うまくいかなかったのはどこなのか。

そこへ行く前に、自分が出てくる。
自分で考えないのに、自分は出る。

教わったことについて考えているのではなく、
教わったことに対する「自分」について考えている。

たくさん悩んでいる。
たくさん考えている。
それでも、教わったことをやっていなかったりする。


以前、
「うまくいかない人は、とにかく自分しか世界にいない」
という言葉を読みました。

強い言葉ですが、少しわかる気がします。

人の話を聞いていても、見ているのは自分。
何かを教わっていても、見ているのは自分。
うまくいかなかったときにも、見ているのは自分。

自分について考えることと、
自分で考えること。
この二つは、同じではないのかもしれません。

誰を見ているのか

人のことを理解しようとするとき、
その人についての物語が少しずつできていきます。

この人はこういう人、
こういう経験をしてきたから今こうなっている。
それは、
その人を理解する助けになります。


ただ、ときどき、
その人を理解しようとしていたはずが、
いつの間にか、
自分の解釈を通してその人を見るようになることがあります。

「この人が苦しんでいるのは、こういう理由だ」
「本当はこういうことを求めている」
説明がつくと、
わかったような気がします。

でもそれは、
その人を理解したというより、
その人を、自分が理解できる形にしただけなのかもしれません。


世界を見るための物語を持つことと、
その物語の中に、目の前の人まで取り込むこと。

似ているようで、
少し違います。

自分の中にできあがったその人と、
目の前のその人。

見ているのは、どちらだろう。

認めにくい弱さと、自分の物語

自分の弱さを認めることは大切だと言われます。

ただ、弱さには、
認めやすいものと認めにくいものがあるような気がします。

「まだ未熟だ」
「もっと学ぶ必要がある」
「ちゃんと向き合えていない」
こういう弱さは認めるのが苦しくても、まだ自分の中に置いておきやすい。
それを認めても、「もっと良くなろうとしている自分」という物語は、
それほど揺らがないからです。


でも、
「自分に都合の悪いことからは逃げたい」
「自分は思っているほど誠実ではないかもしれない」
みたいなものとなると少し違います。

それを認めることは、
自分が自分について信じている物語を揺らすことになる。


人は、自分自身についても物語を持っています。
自分はこういう人間だ、
こういうことはしない、
こうありたい。
でも、現実の自分は、ときどきそこからはみ出します。

難しいのはそのはみ出した自分をどうするかです。

物語に合わないからとなかったことにするのか。
それとも、「自分の中には、こういう部分もある」と、
そのまま置いておくのか。


自分の弱さを引き受けるというのは、
もしかすると、そういうことなのかもしれません。

好きになる必要も、肯定する必要もない。
ただ、都合が悪いからといって、自分ではないことにしない。

自分が信じたい自分だけを、自分にしていないだろうか。
そこに目を向けることが、
思いがけず自分を変えるきっかけになることもあるのかもしれません。

ロマンと現実のあいだ

前回、我々はいろいろな物語の中で生きている、
ということを書きました。

物語の中には、
僕が好きなものや、信じていたいものもあります。
ただ、好きな考え方であることと、
それが現実を説明する法則であることは同じではありません。

時には、
ロマンを大切にするあまり、かえって現実から離れてしまうケースがあるように思います。


本当はうまくいっていなくても、
「まだ途中だから」
「自分のあり方が足りないから」
と考えれば、その物語を守り続けることもできます。

たとえば、
症状が良くなったことは施術のおかげ、
悪化したことは好転反応。
そう考えれば、何が起きても説明できてしまう。

そうやって何が起きても説明できるようになると、
それはもう、反証することのできない、閉じられた理論になっていきます。
どんな結果が出ても、その物語自体を疑うことができない。
目の前で起きていることよりも、自分が信じたい物語の方を見てしまう。

僕は、
そうやって一つの物語を「法則」にしてしまうことに少し違和感があります。


現実には、
人の欲や感情があり、
お金や利害もあるし、
環境や仕組みの問題もある。

自分のあり方だけでは、どうにもならないこともあるかもしれません。
それでも「自分のあり方さえ良くなれば」と考えてしまうと、
ロマンがそうした現実から目をそらすための言い訳になる。


ただ、
だからといってロマンを捨てたいわけでもありません。

ロマンは持っていたい。
でも、それによって現実を見失いたくもない。


自分が信じているものが、現実を見る助けになっているのか。

それとも、現実から目を逸らすものになっているのか。


その境界に、一つの答えを出してしまいたくはありません。

現実を見て、疑って、それでも信じたいものは残しておく。
そのたびに迷って、考え直す。

答えを決めることよりも、
その間で悩み続けることをやめないでいたいと思っています。


ちなみに今回の話は、
「ほら、カカオセレモニー行ってないから」
というフレーズから思いついた話でございます。
サッカー情報からの所、聞いてみてください。

物語を選び、引き受ける

昨年読んだ朝井リョウさんの本の帯に、
「神がいないこの国で人を操るには、“物語”を使うのが一番いいんですよ」という言葉がありました。


人は、いろいろな物語の中で生きているのだと思います。

こうすれば幸せになれる、
こういう人が成功する、
家族とはこういうものだ、
正しく生きるとはこういうことだ。

何を信じて生きるかということは、
宗教に限った話ではありません。

物語があることで、
複雑な世界が少しわかりやすくなったり、
迷ったときに進む方向が見えたりする。

だから、
物語を信じること自体が悪いわけではないと思います。


ただ、
自分が物語の中にいることに気づかなくなると、
その物語が「世界そのもの」になってしまう。

違和感があっても、
物語の方に自分を合わせてしまうこともあります。


だとしたら大切なのは、
物語から自由になることではなく、
自分が今、どんな物語の中にいるのかに気づけること。

信じることも疑うこともできる。
そこにいることも、そこから出ることもできる。

そして必要なら、
別の物語を選ぶこともできる。

また、自分で選ぶということには、
その物語を生きることを自分で引き受けることも含まれているのだと思います。

誰かに与えられた物語をただ生きるのではなく、
自分が何を信じているのかに気づき、選び、その選択を引き受ける。

僕は、そこに自由があるような気がしています。

信じていないのに抵抗がない

先日参加した
クリヤヨガのクラスで、

実際の言葉は覚えていませんが、
「あなたたちは我々の家族です」
「マスターたちが、あなたにとって不要なものを持っていってくれます」
といったような趣旨のことを講師の方が話されていました。

言葉だけ取り出すとかなり強い内容です。

関係性を一方的に決めたり、
相手に大きな力を預けたり、
宗教的な勧誘や、
人を強く信じ込ませる場面でも使われそうな言葉に聞こえます。

そして僕自身、
普段ならこういう言葉には
かなり強い抵抗感や警戒心を持ちます。

 

でもこの講師の方からの言葉には、
不思議と抵抗がありません。

その言葉を
そのまま信じたわけでもありません。
寧ろ全く信じていません。

ただ、
拒否する必要も感じなかった。

 

逆に、
それほど強い言葉でなくても、
自由を奪われるように感じたり、

どこかに囲い込まれるように感じると、
強く抵抗することがあります。

この違いは何だろう、
と考えていました。

 


もしかすると、
僕が反応しているのは
言葉の内容や強さだけではないのかもしれません。

その言葉が、
どんな人から、
どんな関係の中で置かれたのか。

そして、
その場に自分の自由が残っていると感じられるかどうか。

信じてもいいし、
信じなくてもいい。

近づいてもいいし、
離れてもいい。

そういう余地があると、
かなり強い言葉でも
そのまま置いておけることがあります。

言葉は、
言葉だけで受け取っているわけではない。

その場や関係、
相手や自分の状態も含めて
受け取っているのでしょう。

 


 

同じ言葉でも、
抵抗することもあれば、
そのまま入ってくることもある。

その違いは、
どこから生まれるんでしょうね。

自然であろうとしない

「自然でいたい」と思うことがあります。

力まずに、構えずに、余計なことをせずに、
できるだけ自然でありたい。

ただ、
自然であろうとするほど、
かえって不自然になることがあります。

力を抜こうとして、力が入る。

考えないようにして、
余計に考える。

意図を持たないようにして、
「意図を持たない」という意図が生まれる。

自然であろうとすることが、
いつの間にか
「こうあるべき」という形になっていく。

以前は、
自然というものを、

余計な緊張がなく、
意図もなく、
身体に任せている状態、

一つの理想的な状態のように考えていました。

でも今は、
少し違うように思っています。

緊張していることもあるし、
何かをしたいという意図があることもある。

それらを
「不自然なもの」として取り除こうとすると、

その瞬間、

今起きていることよりも、
頭の中にある「自然な自分」の方を
優先することになります。

それは、
以前書いた
「エゴを入れないというエゴ」にも
少し似ています。

自然であろうとすることが、
自然な自分でありたいという
一つの自己像になる。

そう考えると、

自然であるというのは、
特定の状態になることでは
ないのかもしれません。

緊張する必要があるなら緊張するし、
動きたいなら動く。
止まりたいなら止まる。

意図が必要なら、
意図にも仕事をしてもらう。

その時に起きているものを、
必要以上に否定したり、
別の状態へ持っていこうとしないこと。

自然とは、
「こういう状態」という形ではなく、

状況に応じて変わることのできる
自由度のようなものなのかもしれません。

だから、

自然になろうとすることより、
自然であろうとすることを
少しやめてみる。

結果として自然になるためには、
そのくらいが
ちょうどいいのかもしれません。

違うまま、話を続ける

人と話していて、
どうしても同じ景色を見られないことがあります。

相手にはそう見えている。
でも、自分にはそうは見えない。

以前、
そういう人と関わるとき、
どこまで相手に寄り添えばいいのだろう、
と考えたことがありました。

相手を否定したくない。

だからといって、
相手の言っていることを
すべて肯定すればいいわけでもない。

相手の話を肯定することで、
かえってその人が見ている世界を
強くしてしまうこともあるのではないか。

かといって、
「それは違う」
とこちらの見えているものだけを
押しつけても、
おそらく関係は切れてしまいます。

最近、
「相手の世界観に寄り添うこと」と、
「その世界を生きている相手に寄り添うこと」は、
少し違うのではないかと思っています。

たとえば、
相手が何かを強く怖がっているとき。

その怖さの理由について、
自分も同じように考える必要はありません。

「それは本当に怖いものだ」
と一緒に信じなくても、
「あなたには、そう感じられているんですね」
と、
その人に起きていることには
関心を向けることができます。

相手が見ている世界を
自分まで同じように見ることと、

その世界の中で、
相手が何を感じているのかを
知ろうとすること。

この二つは、
同じではないのだと思います。

これは、
肯定と否定の間にある場所とも言えます。

同意はできない。
でも、
あなたそのものを拒絶しているわけでもない。

「僕にはそうは見えない」
と言いながら、
「でも、あなたにはそう見えていることは分かる」
という関わり方もある。

考えてみると、
人と人はそもそも、
まったく同じ世界を見ているわけではありません。

同じ出来事を見ても、
受け取り方は違います。

だから、
相手と同じ場所に立つことだけが、
寄り添うことではないのだと思います。

少し離れた場所からでも、
相手を見失わずにいることはできる。

違う景色を見たまま、
話を続けることもできる。

寄り添うというのは、
もしかすると、
そういうことなのかもしれません。

エゴで施術しないというエゴ

施術では、
「エゴを入れないこと」が大切だと言われることがあります。

自分が治そうとしない、
変化を起こそうとしない、
身体の反応に任せる。
確かにどれも大切なことだと思います。

ただ、「エゴを入れてはいけない」と考え始めると、
少し話が変わってきます。


自分は何もしてはいけない。
身体に任せなければいけない。
意図を持ってはいけない。

そうやって、
「エゴを捨てた施術家でありたい」という自己像がつくられていく。
それ自体が、
一つのエゴなのだと思います。


「良くしてあげたい」
「変化を起こしたい」という気持ちだけが、
エゴなのではありません。

「自分は何もしない」
「身体にすべてを任せる」という姿勢も、
それを守ろうとすれば、同じように自分の都合になります。
(こっちの方が拗らせてるのでタチが悪いのでは・・・)

目の前の身体が何を必要としているのか。
それよりも「自分はこういう施術をする人間だから」という自己像が先に来れば、
結局、身体ではなく自分を見ていることになります。


自分自身、
「エゴを入れない」とはどういうことなのか、
考えていた時期がありました。

でも今は、
施術中にそういうことを考えることはありません。

エゴをなくそうとも、
抑えようともしていない。
必要ならエゴにも仕事をしてもらう。

エゴを克服したわけではなく、
そもそも、その問い自体がなくなりました。

今はそのくらいが一番自然な気がしています。

以前書いた意図の記事もご一緒にどうぞ。
http://masakazushibata.com/archives/2432

子供の頭痛から

お子さんの頭痛を診ていると、
「いつから頭痛がありますか?」
という話だけでは終わらないことがあります。

話を聞いていくと、
小さい頃に頭を強く打ったことがある、
腕を骨折したことがある、
そんな話が出てくることがあります。

それが頭痛の原因だと言いたいわけではなく、
ただ施術では、
そうした外傷も症状への影響の一つとして考えています。


外傷(骨折、打撲、捻挫など)で影響を受けるのは、
骨だけではありません。
骨膜、筋膜、靭帯、関節包といった結合組織にも大きな力が加わります。

これらは身体全体でつながっているため、
受傷した場所だけでなく、離れた部位の動きや張力にも影響することがあります。
レントゲンでは骨がきれいについていてもそこまでは写りません。


神経も同じです。
神経は周囲の組織との間を滑りながら働いています。

外傷によって神経そのものではなく、
神経が働く環境が変わることがあります。

それが痛みだけでなく、
身体の使い方や自律神経の働きにも影響することがあります。


また骨膜や靭帯、関節包には、
身体の位置や動きを脳へ伝える感覚受容器がたくさんあります。
外傷を受けると、
身体はその場所を守ろうとして、
本来の機能的な動きではない挙動をおこし、
組織が回復しても、
その時に覚えた身体の使い方だけが残ることがあります。

痛みはないのに、左右差が残っていたり、

無意識にかばっていたり。
そんな身体は珍しくありません。


つまりお子さんにおいては、
将来の姿勢などにも影響してくるということです。


子どもは怪我が多いものです。
だから子どもの頭痛でも
「頭は痛いですか?」だけではなく、

「小さい頃に大きなケガはありましたか?」
と伺うようにしています。

骨が治ったから終わり、
ではなく、

身体全体がどう回復しているか。
そこまで見ておくことで、
将来の頭痛や姿勢などにつながる問題を防げることもあるかもしれません。


今の身体には、
これまで身体が経験してきたことも、
静かに積み重なっています。

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