本来、
密教的、秘教的な教えというのは、
文字通り「秘められた教え」とされてきたものだと思う。
誰にでも公開して、
誰にでも同じように教えていいものではない。
ある程度の準備や段階があって、
その上で少しずつ伝えられていくもの。
そういう性質のものだったのではないかと思う。
現代では、
情報に簡単にアクセスできるようになり、
本やインターネットを通して、
昔なら限られた人しか触れられなかった知識にも
比較的簡単に触れることができる。
それ自体は良いことでもあると思うが、
ただ、本来秘伝とされてきた体系には、
やはりそれなりの理由があったのではないかとも思う。
現代では、
こうした分野は「スピリチュアル」と呼ばれて
揶揄される知識の一部であることも多い。
密教や瞑想の体系を見ていると、
多くの場合、身体の中心を扱う。
眉間、ハート、丹田、背骨。
こうした場所に注意を向けることが
重要な要素になっていることが多い。
解剖学的に見てみると、
身体の中心ラインには神経系の重要な構造が並んでいる。
視床、視床下部、脳幹。
感覚の統合や自律神経の調整、
生命維持のリズムに関わる領域だ。
密教が身体を重視するのも、
意識だけではなく、
こうした神経の働きに
直接働きかけるためなのかもしれない。
私たちは普段、
世界をそのまま見ているわけではなく、
記憶や解釈を通して認識している。
脳は常に
意味づけや判断をしている。
けれど、
呼吸や身体感覚のような
もっと原始的なレベルの感覚に注意を向けると、
その編集が少し静まる瞬間がある。
密教のような体系は、
もしかするとそうした状態に
入るための方法を扱っているのかもしれない。
もしそうだとすれば、
それが簡単に公開されなかった理由も
少し理解できる気がする。
誤読や誤解をせず、
ただただその密教的情報を受け取るには、
準備というかそれなりのstateが必要なのだと。
知識として理解することと、
身体として扱えることの間には、
大きな距離がある。
それを扱う人の状態に左右される。
だからこそ、
段階的に伝えられてきた。
隠すためというより、
扱える状態を整えるために。
そんなことを最近少し考えている。
